昭和60年(1985年)4月に、名古屋市の大学を卒業して、地元のある機械メーカーに就職した私は、会社などの組織で「働く」ということを全く知らなかった。卒業前までに働いた経験といえば、家庭教師を筆頭に、大学の学生課で見つけたアルバイトを少しやっただけである。
だから、入社後、身に起こることは何もかも「働くって、そういうものなのだ」と思い込み、疑問を感じるための知識や体験、ましてや器も度胸もない状態だった。
以下に、当時、新人女子社員が体験した昭和終盤のある職場風景を話そう。今は仕事からほぼ引退した身分で、知識や体験、器も度胸もたっぷりあるので、多少皮肉交じりだが、うぶな自分の仕事に関する思い出を忘れないうちに綴っておこうと思う。
まず、給料。就職した会社では、四大卒で男子は一律13万円、女子は11万円。2万円の差があったが、この時代、性別で給料差があることは当たり前。特に四大卒の女子を一年前に初めて行ったこの会社では、21・22歳のこうした女子社員が高卒、短大卒よりも長く勤務するとは思われていなかったようで(1,2年で『寿』退社するとみなされた)、大学で学んだ知識を生かした仕事につかせてそれに見合う待遇を…という発想ではなかったようだ。終身雇用制度のレールに乗った男子社員と、そうでない女子社員を同等に扱ってはいけないのだ…と、当時の私は心のどこかで不満はあったものの、この男女差別を正当化していた。
そして、お茶くみ。暗黙の了解であったが、新入女子社員は、男性社員に将来自分の妻になれそうな人かどうかをチェックされる。毎朝女子社員は、同じ部署の男性社員にコーヒーやお茶を(極端な例では、各自のマイカップに、砂糖やミルクのお好みもちゃんと反映して)配る。その時、ちょっとした雑談まで交わせるようであれば、得点も上がる。私の母なぞは、私がちゃんと相手の目を見て優しい笑みを浮かべているか、心配していた。
給湯室には、こんな看板もあったっけ。『男性の皆さま、使い終わった湯呑は流しの中に置いてください。女子社員、自分の湯飲みは自分で洗え。』今考えると、恐ろしい。これは先輩の女子社員が掲げたものだった。女子社員の間には『当番』と書かれた札が、毎週どこかの机上に置かれていた。当番になると、仕事の合間を縫って、給湯室の流しにたまった湯呑やカップを洗いに行くのだ。洗った湯呑などには最後にきちんと熱湯をかけて、早く乾燥するようにするのよ…と、先輩の女子から、ありがたいアドバイスも頂いた。
週一回の床掃除も忘れてはならない。毎週金曜日の朝は、職場に備え付けられた箒と塵取りをもって、女子社員は所属部署の床を掃く。工場、日本と海外支店、合わせて数千人の社員は雇えても、清掃業者は雇えなかったのだろうか?
(もちろん、私にはちゃんとした責任のある業務があった。海外事業部に配属され、製品輸出のための準備と書類作成、顧客と工場の間に入ってスケジュール調整などである。)
今年2022(令和4)年は、1872(明治5)年10月14日に日本初の鉄道が新橋・横浜間に開業してから、150年周年ということですが、私の鉄道の思い出の筆頭は新幹線です。
1964(昭和39)年、新幹線開業直前の9月6日に、試乗券で東京駅から小田原を往復したのが始まりです。
新幹線との写真ばかりが貼られたアルバムの1ページを見ると、8歳だった私は、新幹線の乗車口の前で、姉と一張羅を着て写真におさまっています。母もこの試乗には、一緒だったのですが、カメラ撮影に徹していたのか写真には写っていません。姉も私も母の手作りのお出かけ用のワンピースを着ています。当時住んでいた家から近い渋谷の洋服生地屋「東亜」に母に付き合っていき、選んだ生地が数日後にワンピースになっていました。その頃あまり写真を撮られるのが、好きでなかったけれど、この時ばかりは、母の意気込みと周りの高揚感に圧倒されたのかポーズをとっています。
読んでいた子供向けの雑誌では新幹線の話題が持ち切りで「夢の超特急」と書かれていました。車内に入った瞬間、そのカラフルなシートに「これが夢の超特急だわ」と子供心に納得したことを記憶しています。「ただいま時速200キロ」という車内アナウンスも今も耳に蘇ってきます。
1964年から走った0系は2008年に引退しましたが、この0系の「ブライトブルー」は、今も鼓舞される色となっています。
ブライトブルー:
16進表記: #003F6C
RGB: (0, 63, 108)
マンセル値: 4.5PB 2.5/7.8
参考: 鉄道ジャーナル通巻217号 特集「鉄道車両 色彩の美学」
■初めてのデジタル体験
▼最初のデジタル体験は、1983年に発売の8bit PCの名機と言われたソード・コンピューターでした。
ソードは、ノープログラミング言語PIPSを搭載していました。
ノープログラミング言語は、ルール沿ってコマンドを書くと、素人でも簡易なプログラムが書けました。
▼当時の8ビットPCは、MS-DOSが普及する以前で、殆どがBASICを搭載していた。
市販ソフトなどまだ無く、BASICで自作のプログラムを動かすという時代でした。
▼PIPS-IIIは、エクセルのような表計算機能があり、EXcellのような行と列の構成で60行使えました。
その数値を単純な円グラフか、棒グラフにすることができた。
▼当時のPCは、HDが大きく40メガの容量でも、その重量は20㎏超える超重量級で、デスクの四分の一を占拠しました。
更にFDは8インチで、LPレコードの大きさでした。
▼当時は手書きの見積書と、手書きの資料の時代に、見積書だけでなく、得意先の実績をグラフ化したり、
売筋分析をグラフ化し、得意先へ持ち込んだので注目を受けました。
▼また会計処理では、まず振替え伝票の形式で、コード打ち込む窓を作り、特定のページにそのデーターを書き込みさせる。
例えば1100とコードを入力すると、変換表のデーターから「現金」という文字が記入される。
▼相手科目のコード5111と打つと「交通費」と変換される。適用欄はすべて手打ちする。
これが仕訳帳に一覧でデーターとして作成される。
▼この仕分帳のデーターから、借り方と貸し方別に、それぞれのページに「文字列照合」で転記させるコマンドで仕分記入し、
各ページ毎に合計させる。その合計を、PLやB/Sに転記させると、目的の財務諸表が完成するという仕組みでした。
▼それまでPCプログラムには無縁でしたが、プロの「販売管理」プログラムで、コマンドの使い方を研究し、
試行錯誤てプログラムを書き、試運転でバグを取り除き、完成した時の喜びは未だに忘れられません。後にも先にも、
自作プログラムはこれ一本のみであり、大変な思い出である。
▼その後、16ビットマシンが主流となり、バソコンもNECのPC-9801シリーズに切替り、市販ソフトが次々に販売された。
▼この懐かしい「PIPS」は現在は東芝に引継がれて進歩し、Windowsバージョンもあるようです。
しかも、簡易言語「The PIPS」としてフリーソフトウェア化されています。
▼PIPSの名の由来は、Pan(汎用)Information(情報) Processing(処理)Systemの頭文字から来ているという。
更に「PIPSクラブ」というホームページがあり、愛好家が独自に使い方を研究発表している事を知った。
終戦の日5才7か月の私、我らの『履物』は「下駄」か「わら草履」
それも履いていれば良いほうで、二本の歯はとうに減ってしまって、
本体の“台”が後ろの部分から磨り減り、鼻緒の穴に届いてその
用をたさなくなるまで履いていた子が多勢いた。
わら草履も減って、減って、かかとが地面につく状態の物を平気で
履いていた子もいた。
“雨”に濡れた草履の重かったこと、気持悪かったこと。
『それ』しか、なかったから・・・
それ以上に履物が全く無くて、裸足で飛び回っていた子も沢山いた。
鼻緒が切れると、親がはぎれや手ぬぐいの端っこを切り裂いて
器用にすげ替えてくれた。
大きくなると、自分でもすげ替えた。
私自身、食糧事情やこの点においても、貧しいながらも恵まれていた
方かもしれない。
親が頑張っていてくれたということだろう・・・
終戦の翌年21年に小学校入学を迎えているが、学校に上がり、
『靴(ズック)』を買ってもらったのはいつ頃だったのだろう?
ただ、嬉しくて天にも登るような気持で、履き下ろすまで、床の間や
枕元において、光り輝く「それ」を眺めていた光景は今も覚えている。
自然に『笑み』がこぼれていた。
貧しくとも、“心豊かな”少年期を過ごせたことを今になって、感謝
している。
物の豊かすぎる今、心の貧しい人がいかに多いか・・・
8月15日、終戦(敗戦)の日。
祈ろう!“核廃絶”と未来永劫の“世界平和”!!
77年前、西方の彼方にきのこ雲とひとつの閃光が走った。
焼けただれた皮膚をボロ布のようにぶら下げた人たちが
助けを求め、水を求め、元安川の水面を覆い尽くした。
今宵、その水面を平和を祈る「供養の灯篭」が埋め尽くす。
「繰り返しません、過ちを・・・」
この誓いもむなしく、今も世界のあちこちで繰り返される
あまたの「戦争」や「核実験」
人類の“愚かさ”“みにくさ”“強欲さ”
子や孫に伝えたい『平和の尊さ』
それを崩す“おろかな輩”を、決して許すまじ!!
『御霊』よ、どうぞ安らかに・・・
合掌
- Joyful Note -