私は、京都在住の一人暮らしで、2023年に95歳になりました。
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8月になると、78年前の戦争を思い出します。
私は、女学校1年生(14歳)の時、学徒動員で軍需工場へ徴収されました。
落下傘(パラシュート)と飛行機の布を織っていました。
落下傘は、5ミリの糸の切れ目も許されません。
開いた時そこから破れるので、その人の命がかかっているのです。
飛行機の布は何に使うのか知らされず、ウワサでは木製の飛行機に
貼る布だったようです。
ナイロンは戦後の商品で、当時は絹が繊維として一番強かったのです。
食事は、芋のつるやひじきに、お米が少し混じっているご飯と、具のない味噌汁でした。
時には乾パン1袋だけの時もありました。
みんなお腹が空いて水をガブガブ飲み、青い顔をして、むくんで栄養失調でした。
ハダカ電球の下で、厳しい立ち仕事で疲労困憊です。
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クラス50名の生徒に1名の先生がつき、朝礼で日本軍の成果だけを聞かされました。
新聞もラジオもないので、劣勢は知らされず・・・
私達は腹ペコで、戦争どころでは無く、考える力も無く、ただただ生きていました。
大東亜戦争(太平洋戦争) 聖戦(侵略戦争) 玉砕(全滅)
神風(台風) 鬼畜米英〔強国米英) 何もかもの言葉ががウソでした。
女学生(14歳~16歳)の私達が造る兵器に頼らねばならない国が
勝てるわけありません。
戦争は、勝っても負けても人が死にます。
平和は、95歳老女の唯一つの願いです。
昭和時代の回想
▼物心がついたのは、3~4歳くらいで、昭和21年 ~22年ころであった。
その頃は、家族で戦時疎開していた時代で、今日の行政区分では
福岡県朝倉郡筑前町あたりであった。
筑前町には母方の先祖の家があり、そこへ身を寄せていた。
▼祖父と父親は、戦前は福岡の中心的繁華街の東中州人形町に店舗を構えていた。
今日で云う生菓子の製造・直売で、それなりに成功していたらしい。
当初は福岡県飯塚市で事業を開始し、それなりに成功し、
祖父は星雲の志を抱いて東京進出を考えたらしい。
▼ところが東京の地価が想像を超える価格だったので諦め、
九州一の繁華街の東中州で開業したという話を、母から聞いたことがある。
▼やがて福岡市街も空襲があり、焼け出されて
母方の実家があった福岡県朝倉郡筑前町へ一時的に身を寄せていた。
そして今日で云う農協のようなところから依頼され、一時的に大きな精米所を任されていた。
▼この精米所の前が、子供目線では先が見通せないほど広大な広場で、
所々に大きな穴が開いていた。
これが、かつて東洋一と云われた「陸軍大刀洗飛行場」であった。
▼この飛行場から「海軍鹿児島基地」の鹿屋空港へ戦闘機が飛び立ち、
やがては南海の空へ特攻機として散っていったという歴史があります。
▼私の叔父たちは、士官学校卒の軍人だったため、終戦直前に南方方面に派遣され、
あえなく戦没者の仲間入りしている。
昨日、2023年8月16日、京都五山送り火が無事行われました。
テレビの生中継で五山送り火を観ていて思い出したことを、誰にも言わずに忘れてしまう前に昭和の部屋に書かせていただくことにいたします。
父は明治40年京都生まれ、京都育ち。祖父は明治10年京都生まれ、京都育ち。
もう、60年ほど前のことです、
『あんたのおじいちゃんから、長岡の山(現 長岡京市)に「竹に鈴」という送り火が点ったのを若い頃、観たことがある。観たことはないけど「妙法」より北の山に「イ」とか「ニ」とかもあったらしいと聞いたことがある。
昔は、もっとたくさんの山で送り火が灯ってたらしいなぁ』
こんな話、父から聞いただけで、書物で確認したわけでも、報道されていたわけでもありません。これが本当に正しいのかわからないのですが、まんざら嘘ではないと思います。もし、詳しくご存知の方あればご教示の程お願いします。
有る画期的な事業がまもなくはじまります。始まったら私は、真赤なスポーツカーに枯葉マ−クを2つ付けて日本一周をやろうと計画しています。
自分が作った温泉施設と温泉歩行プ−ルで体を鍛えています。
平和資料館のある本川小学校の正門を入ると、ふいに目の前が、明るくなった。桜は八分咲き。ヒヤシンスの花は鈴なりに咲き、児童の名の書かれた鉢の苺は、白花を覗かせている。新入生を三日後に迎える前庭の華やぎの一隅にその童子像はあった。
「あんなところにお地蔵さまがいる」と発せられた少年の声がなければ、気が付かないほど、ひっそりと立っていた。
「背に詩が刻まれています」案内の方に教られ覗き見ると文字が刻まれているのが読み取れた。
―消えし児の還りて咲かむ海棠の花―
広島の中洲を造った太田川は、相生橋から元安川と本川に分かれ海に注いでいる。1945年8月6日、午前8時15分、原爆搭載機B29エノラ・ゲイの爆撃手は、投下目標のT字型の相生橋を照準に捉えて、自動装置のスイッチを押し、原爆を機体から放った。原子爆弾は上空580mで閃光を放って炸裂し、灼熱の火球を作った。火球の中心温度はセ氏10000℃を超え、1秒後には、最大直径280mとなり、周囲は4000℃近くに達した。爆心地からもっとも近い学校の本川国民学校(現本川小学校)の建物は、瞬時に火を噴き、登校していた児童及び教職員は、即死に近い状態で全滅した。と記録されている。
被爆死した児童の父が小学校を訪れた際に、当時の平川校長が、句を贈った。昭和53年句を刻んだ童子像が安置され、追悼記念樹としてハナカイドウが植えられたと校史にはある。バラ科のハナカイドウは、画のように花柄が長く垂れることから垂糸海棠とも呼ばれている。
この春も本川小学校のハナカイドウは、花柄を伸ばし、付けた蕾を次々に咲かせていることだろう。春になるとあたりまえに咲く、あたりまえでない有難さ。
参考文献:「ヒロシマ散歩」植野浩著・「図録ヒロシマを世界に」広島平和記念資料館編集
掲載誌:俳句同人誌『かつしか』第20号2010年7・8月
掲載Webサイト:Honkawa Peace Museum http://www7.plala.or.jp/honkawa-pta/peace.htm
平和資料館のページへ>校内の資料>ねむれる花~海棠~
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