日時: 平成15年2月22日(土曜日)午後3時〜5時
場所: 豊島区医師会館 4階講堂
豊島区西池袋3−22−16
演題: 来日日本語留学生の推移と現状
−中国人を中心として−
演者: 日本語教育振興会 評議員
東京リバーサイド学園 校長
浜口 猛比古氏
1 KANCHAN * 2 たかのり * 3 日野克彰* 4 西野正三
5 奥野修司 6 今川守 * 7 安部辰雄 * 8 ごんた *
9 きらら * 10 だん・大野 * 11 島内芙美子 12 こたろう*
13 ザックス * 14 杉本 ユミ 15 幹 16 KAME *
17 賀川英治 18甲斐尚子 19 天野 秀 20 坂本昇造
21 駒井義孝 22 土居宜三 23 藤田達二郎* 24 浜口大樹*
25 浜口由佳* 26多磨のけん* 27平澤威男* 28 黒崎薫 *
29 長谷道子 30 鄭日玉 31 岡嶋フサ 32 内田久美子
(*は懇親会出席)
司会 副会長 ザックス・杉本
開会の辞 会員 たかのり・王子
ご挨拶 顧問 幹・甲斐
閉会の辞 会員 KAME・亀井
大正12年5月 東京・渋谷に生まる
昭和12年4月 府立1中より仙台陸軍幼年学校へ入学
同 19年3月 陸士卒業、歩兵部隊配属、落下傘部隊に転科
同 20年12月 復員
同 24年3月 拓大商学部卒業
同 24年5月 浜口繊維産業KK 創立
同 31年6月 東京八重洲交易に改組、日中貿易に従事
同 63年6月 東京リバーサイド学園設立
http://www.tokyoriverside.co.jp/
上記の他
渋谷区日中友好協会 副会長
任意団体・東京都日中友好協会理事
NPO法人・東京都日中友好協会理事
財団法人日本語教育振興会評議員
私は大東亜共栄圏・アジアの諸民族の共存共栄を信じて陸軍幼年学校から陸軍士官学校を昭和19年3月に卒業して、陸軍歩兵少尉に任官し、その後落下傘部隊に転じ、戦う場所なくサイパン島特攻要員として待機中終戦を迎えました。
昭和20年12月に復員して一面焼土と化した東京に戻り、狭い国土で資源のない日本の将来の発展の為には、数千年の歴史・文化の関係が深く広大な国土を持つ中国と提携協力して、世界を侵略し植民地化した欧米諸国に対する以外には道がないと痛感し、その信念は一貫して今日に及んでおります。
私は1956年(今から47年前)第1回北京上海日本商品展覧会に参加して初めて訪中しました。元陸軍航空士官学校校長で終戦時航空兵器総局長官を勤め、戦後東久爾氏や片山哲氏等と平和憲法擁護連盟を結成された遠藤三郎中将の推薦を経てその後周恩来総理の友好貿易三原則で認められ、友好商社として日中貿易に従事しながら日中友好運動を続け、1959年岸内閣による長崎中国国旗侮辱事件直後と1969年文化大革命の最昂揚期の2回に亙り中国より国外追放処分を受けましたが、中国と子々孫々に亙る友好関係を築かなければ長い目で見て日本と日本人の将来の繁栄はあり得ないという信念は変わらず、1972年には日中の国交を正常化し、1978年には日中平和友好条約を締結することが出来ました。
今後何十年間かは判りませんが、華僑を含めて15億とも16億とも云われる地球上最大の人口を有する中国が今経済の改革開放市場経済を採り入れて急速に発展しつつあります。
更に最近教育面に全力投球で力を注ぎ始めており、今世紀中には必ずアメリカを追い越して世界一の大国になるものと私は確信しています。初中等教育の充実と共に既存の有名大学の定員の拡大、短大、高専の大学への格上げを行い、2002年には沿海地区の大都市では高校卒業生の約70%が大学へ入学可能となりました。
この様な状況下で、優秀な学生を多数日本へ就学させることは、急速に困難になってきていますが、私は1988年に中国人の若者が日本と日本人をよく理解して日中友好の架け橋となり、また自分の子供を将来日本へ留学させたいと思うような人々を育成したいものと思って日本語学校を開校しました。
私も今年で80才、私の目の黒い中には困難でしょうが、将来第二の孫文・魯迅のような人材が育ってくれるようにと大それた期待を抱いて人生最後の仕事に励んでいます。
尚、昨年10月には国交正常化30周年を記念して、国交正常化以前より日中友好運動を続けていた日本人と在日華僑で結成した老日中クラブの一員として中国政府より招かれて訪中し、中国外務省貴賓室において唐家旋外相と面会し、次の世代の日中友好の架け橋となる青年の育成に就いて懇談した折、大変有意義な仕事であると激励を受けました。
戦後40年間 1945年〜1984年
1978年 当時の留学生は約5800人日本経済バブル拡大期 1985年〜1990年 第1次ブーム
日本は中国人にとって出稼ぎ天国 日本留学より帰国した成金長者御殿多数出 現 特に福建省出稼ぎ金もうけの為に日本語学習目的の就学ビザを悪用就学増加第2次ブーム 1991年〜1993年
日本経済のバブルは峠を越えたがまだその余韻は残り、日本国内では中小企業で3K業務の人手は不足し、中国での出稼ぎブームも続き1991年〜1992年には就学生在籍者は36,000人近くと過去最大数。同時に不法滞在・不法就労者も激増し 1994年には24,000人に急増。氷河期を迎えた日本語学校業界 1994年〜1997年
不法滞在・不法就労者の激増に伴い、元就学生の刑事犯罪も急増。法務省・入管は不法滞在多発地域(中国・ミャンマー・バングラデッシュ、当初はフィリピン・イラン・パキスタン・共産諸国も)より入国申請する就学希望者の審査を1993年より超厳格化、94年以降96年頃迄は申請数に対する許可率10〜30%、96年には在籍者11,000人と92年の1/3以下に減少、学校数も廃校相次ぎ92年の463校が、98年には265校(註)に、耐えて生き残った学校は自ら厳しく募集・選抜に当り現地で面接・試験を行って自律自戒して自衛。(註:98年度までの認定校数は576校、うち廃校311校)第3次ブーム
10万人計画達成は目前。但し新設校急増は警戒警報 1998 年〜2002年氷河期を生き残った学校は募集・選抜・在籍管理に力を注ぎ不法滞在新規発生は急減、24,000→10,000以下に。入管は不法滞在新規発生率5%以下の学校を適正校として2000年以降就学審査を学校に一任。結果98年15,000人は2000 年には2倍に、2002年度には40,000人強に、定員充足率も全体で約60%、適正校は80〜90%になり定員枠増に。新設校は99年より増え始め、02年迄の4年で106校にも急増。氷河期の苦しい経験がないので、募集管理に問題、危険。講演の後、質疑応答に入り、日本語教育の経験があるというKANCHANさん他から熱心な質問があり、あと、10年は頑張りたい、と言う演者への激励の言葉も多く聞かれた。
その後、KAME・亀井会員から謝辞があり、盛大な拍手が演者に送られた。
★ 講演終了後、「栞」にて懇親会を開き、22名の参加を得て盛会であった。
ここで参加者全員の感想なども聞くことが出来て、有意義な懇親の会であった。
この文は演者から配られたプリントに依るものです。プリント(21p)は少々残部がありますので、ご希望の方はザックス・杉本までお知らせ下さい。
(文責:ザックス・杉本)